元々、漫画家志望だった。
どうして私は、演劇なんかをしようと思ったんだろう?
「生涯舞台人」とか言っているプロの役者や演出家の気持ちが、実は、私には理解できなかった。
…
確か、「漫画家になるには、人間を洞察することが必要」だと、直感的に感じた。
「人間を洞察する」動機で演劇の世界に足を踏み入れたのだ。
お陰で、今ではエヅくほどに人間が苦手だ。
しかし、他人からは「人と関わるのが苦手だとは思えない」と、よく誤解されるために、今でも人知れず七転八倒することもある。
ということで、演劇・芝居の世界には、元々私は向いていなかった。芝居や舞台を司る神は、私には降臨しなかったのだ。…
それにしても、私、よく生きていたよ。
小学校1年の時、自由帳に書いた『銀河鉄道999』の“メーテル”の絵を友達に褒められて、有頂天になって以来、私は将来、漫画家になるものだと思い込んでいた。
その思い込みから目が覚めた頃、私は社会人になっていた。
その夢だけを安易に追いかけて、取り返しがつかないことになっていた。
しかし、死にたかった高校時代も、漫画家になる、という夢がどこか心にあったから、多分生きていられた。
高校の卒業のはなむけの言葉に、
夢が夢でなくなるのは 夢やぶれた時だけではないですよ
と書いた先生がいた。…確か、文楽の授業を担当していた、国語の先生の言葉だ。
その言葉どおり、夢が叶った時も、夢が夢ではなくなる。
この先生は多分、夢が叶った瞬間に、夢という原動力を失う「虚しさ」についても、この言葉に込めただろうと思われる。
夢は、叶えるためだけのものではなく、ただただ人間を突き動かす原動力として、幾つになっても、夢は夢として活躍し続ける。
だったら、どうせ叶わない夢と腹を括って、とてつもなく素晴らしい美しい夢を描いて、夢に突き動かされて生きていくのがいい。これはもう、夢と呼ぶより、完成されるべき自分自身の姿なのだな。
この歳になって、夢が何故必要なのか、体験を通じて知ることができたことは、好かったと思う。
うららのうらnostalgia
(過去記事格納ブログ)
- Proletarier労働歌★鉄の歌 (9)
- Proletarier労働歌★転勤の歌 (19)
- Proletarier労働歌★味噌と少しの野菜を喰らふ日々 (15)
- さかのぼりの青春 (50)
ブログ アーカイブ
2007年9月24日月曜日
悔いは無い
私は元々、漫画家志望だった。
その夢を叶えるべく、高校卒業後、描いたマンガを片手に東京に上京して、出版社のプロに見てもらいに行ったことがある。
何件か出版社を廻って、ボロクソにけなされて、最後に挑んでいった出版社が、実は小学館だった。
なぜ最後が小学館かというと、小学館のような凄い出版社の敷居を最初にまたぐのは恐れ多い、と思っていたから、一番最後だったのだ。
密かに憧れ続けた『プチ・フラワー』の編集長に出会った。
小さい目だと思っていた目が、いきなり大きな目に変わる、珍しい目のおじさんだった。
何でもこの人が、かの竹宮恵子、萩尾望都を生み出したベテラン編集者だというから、そんな凄い人に自分のマンガを見て貰うなんて、これはもの凄い経験である。
そしてこの編集長が、私に仰った言葉、
「話は書けるね。」
という一言が、後の私自身を支え続ける一言になった。
人間、自分を成長させてくれる大人物には、人生のどこかで出会っておくべきである。
結局、私が漫画家の夢を諦めたのは、思いのほか絵がヘタクソだったからなのだが。
その編集長には「自分の線が、まだ出ていない。あと300枚は描け」と助言を頂いたものの、私は「凄い編集者に会った」というところで得心がいき、悔いも情熱も、思い残すことが無くなった。
もしも300枚を描く情熱があって、しつこく持ち込み投稿をし続けていたならば、私は今頃、漫画家だった…?
その夢を叶えるべく、高校卒業後、描いたマンガを片手に東京に上京して、出版社のプロに見てもらいに行ったことがある。
何件か出版社を廻って、ボロクソにけなされて、最後に挑んでいった出版社が、実は小学館だった。
なぜ最後が小学館かというと、小学館のような凄い出版社の敷居を最初にまたぐのは恐れ多い、と思っていたから、一番最後だったのだ。
密かに憧れ続けた『プチ・フラワー』の編集長に出会った。
小さい目だと思っていた目が、いきなり大きな目に変わる、珍しい目のおじさんだった。
何でもこの人が、かの竹宮恵子、萩尾望都を生み出したベテラン編集者だというから、そんな凄い人に自分のマンガを見て貰うなんて、これはもの凄い経験である。
そしてこの編集長が、私に仰った言葉、
「話は書けるね。」
という一言が、後の私自身を支え続ける一言になった。
人間、自分を成長させてくれる大人物には、人生のどこかで出会っておくべきである。
結局、私が漫画家の夢を諦めたのは、思いのほか絵がヘタクソだったからなのだが。
その編集長には「自分の線が、まだ出ていない。あと300枚は描け」と助言を頂いたものの、私は「凄い編集者に会った」というところで得心がいき、悔いも情熱も、思い残すことが無くなった。
もしも300枚を描く情熱があって、しつこく持ち込み投稿をし続けていたならば、私は今頃、漫画家だった…?
2007年9月19日水曜日
ちろりさん
ほんのちょっとしたことで、思春期の青少年は、大きく育ちもするのである。
そうだ。
もう一人、私の書いたものに、丁寧に赤ペンを入れてくれた人がいた。
京大卒落研出身の秀才国語教師、通称“ちろりさん”。女性である。中村雅俊の青春モノのドラマが好き過ぎて、憧れて、うっかり教師を志してしまったという。可哀想に。
このちろりさんが、不登校の私が所属していた文芸部の顧問だった。
更に、ちろりさんも片道二時間半かけて通う私と同じ沿線から、同じ電車で通勤しておられた。
あの地獄の通学(通勤)路、私はボロボロに潰れていたが、ちろりさんは元気に遅れずに毎日通勤しておられた。羨ましい…。
この方、私が生まれて初めて書き上げた小説を手放しで褒めて下さった。
その上で、ちろりさんが特に「素晴らしい」と思う箇所に青鉛筆、誤字脱字などの校正に赤ペンを入れて下さった。
先生だから、ちゃんと「アメとムチ」を使い分ける。…というか、この場合、ムチどころか、私の将来を考えたら、あの赤ペンも、青鉛筆も非常に有り難き幸せであった。
客観的な目線で、正しい国語力でもって、私を育ててくださる方に出会えたこと。
高校に行っておいて、よかった。
ちろりさん、お元気でしょうか。
あの赤ペン、青鉛筆の添削して下さった原稿を、私は今尚大事にしております。
んで、最近もうちょっと自分自身国語力を磨く必要があると、痛感する今日この頃でございます。
そうだ。
もう一人、私の書いたものに、丁寧に赤ペンを入れてくれた人がいた。
京大卒落研出身の秀才国語教師、通称“ちろりさん”。女性である。中村雅俊の青春モノのドラマが好き過ぎて、憧れて、うっかり教師を志してしまったという。可哀想に。
このちろりさんが、不登校の私が所属していた文芸部の顧問だった。
更に、ちろりさんも片道二時間半かけて通う私と同じ沿線から、同じ電車で通勤しておられた。
あの地獄の通学(通勤)路、私はボロボロに潰れていたが、ちろりさんは元気に遅れずに毎日通勤しておられた。羨ましい…。
この方、私が生まれて初めて書き上げた小説を手放しで褒めて下さった。
その上で、ちろりさんが特に「素晴らしい」と思う箇所に青鉛筆、誤字脱字などの校正に赤ペンを入れて下さった。
先生だから、ちゃんと「アメとムチ」を使い分ける。…というか、この場合、ムチどころか、私の将来を考えたら、あの赤ペンも、青鉛筆も非常に有り難き幸せであった。
客観的な目線で、正しい国語力でもって、私を育ててくださる方に出会えたこと。
高校に行っておいて、よかった。
ちろりさん、お元気でしょうか。
あの赤ペン、青鉛筆の添削して下さった原稿を、私は今尚大事にしております。
んで、最近もうちょっと自分自身国語力を磨く必要があると、痛感する今日この頃でございます。
登録:
投稿 (Atom)