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2007年9月29日土曜日

夢が命綱

元々、漫画家志望だった。
どうして私は、演劇なんかをしようと思ったんだろう?
「生涯舞台人」とか言っているプロの役者や演出家の気持ちが、実は、私には理解できなかった。

確か、「漫画家になるには、人間を洞察することが必要」だと、直感的に感じた。
「人間を洞察する」動機で演劇の世界に足を踏み入れたのだ。

お陰で、今ではエヅくほどに人間が苦手だ。
しかし、他人からは「人と関わるのが苦手だとは思えない」と、よく誤解されるために、今でも人知れず七転八倒することもある。
ということで、演劇・芝居の世界には、元々私は向いていなかった。芝居や舞台を司る神は、私には降臨しなかったのだ。…

それにしても、私、よく生きていたよ。

小学校1年の時、自由帳に書いた『銀河鉄道999』の“メーテル”の絵を友達に褒められて、有頂天になって以来、私は将来、漫画家になるものだと思い込んでいた。

その思い込みから目が覚めた頃、私は社会人になっていた。
その夢だけを安易に追いかけて、取り返しがつかないことになっていた。
しかし、死にたかった高校時代も、漫画家になる、という夢がどこか心にあったから、多分生きていられた。

高校の卒業のはなむけの言葉に、

  夢が夢でなくなるのは 夢やぶれた時だけではないですよ

と書いた先生がいた。…確か、文楽の授業を担当していた、国語の先生の言葉だ。
その言葉どおり、夢が叶った時も、夢が夢ではなくなる。
この先生は多分、夢が叶った瞬間に、夢という原動力を失う「虚しさ」についても、この言葉に込めただろうと思われる。

夢は、叶えるためだけのものではなく、ただただ人間を突き動かす原動力として、幾つになっても、夢は夢として活躍し続ける。
だったら、どうせ叶わない夢と腹を括って、とてつもなく素晴らしい美しい夢を描いて、夢に突き動かされて生きていくのがいい。これはもう、夢と呼ぶより、完成されるべき自分自身の姿なのだな。
この歳になって、夢が何故必要なのか、体験を通じて知ることができたことは、好かったと思う。

2007年9月24日月曜日

悔いは無い

私は元々、漫画家志望だった。
その夢を叶えるべく、高校卒業後、描いたマンガを片手に東京に上京して、出版社のプロに見てもらいに行ったことがある。

何件か出版社を廻って、ボロクソにけなされて、最後に挑んでいった出版社が、実は小学館だった。
なぜ最後が小学館かというと、小学館のような凄い出版社の敷居を最初にまたぐのは恐れ多い、と思っていたから、一番最後だったのだ。
密かに憧れ続けた『プチ・フラワー』の編集長に出会った。
小さい目だと思っていた目が、いきなり大きな目に変わる、珍しい目のおじさんだった。
何でもこの人が、かの竹宮恵子、萩尾望都を生み出したベテラン編集者だというから、そんな凄い人に自分のマンガを見て貰うなんて、これはもの凄い経験である。
そしてこの編集長が、私に仰った言葉、

「話は書けるね。」

という一言が、後の私自身を支え続ける一言になった。
人間、自分を成長させてくれる大人物には、人生のどこかで出会っておくべきである。

結局、私が漫画家の夢を諦めたのは、思いのほか絵がヘタクソだったからなのだが。

その編集長には「自分の線が、まだ出ていない。あと300枚は描け」と助言を頂いたものの、私は「凄い編集者に会った」というところで得心がいき、悔いも情熱も、思い残すことが無くなった。
もしも300枚を描く情熱があって、しつこく持ち込み投稿をし続けていたならば、私は今頃、漫画家だった…?

2007年9月19日水曜日

ちろりさん

ほんのちょっとしたことで、思春期の青少年は、大きく育ちもするのである。

そうだ。
もう一人、私の書いたものに、丁寧に赤ペンを入れてくれた人がいた。
京大卒落研出身の秀才国語教師、通称“ちろりさん”。女性である。中村雅俊の青春モノのドラマが好き過ぎて、憧れて、うっかり教師を志してしまったという。可哀想に。

このちろりさんが、不登校の私が所属していた文芸部の顧問だった。
更に、ちろりさんも片道二時間半かけて通う私と同じ沿線から、同じ電車で通勤しておられた。
あの地獄の通学(通勤)路、私はボロボロに潰れていたが、ちろりさんは元気に遅れずに毎日通勤しておられた。羨ましい…。

この方、私が生まれて初めて書き上げた小説を手放しで褒めて下さった。
その上で、ちろりさんが特に「素晴らしい」と思う箇所に青鉛筆、誤字脱字などの校正に赤ペンを入れて下さった。
先生だから、ちゃんと「アメとムチ」を使い分ける。…というか、この場合、ムチどころか、私の将来を考えたら、あの赤ペンも、青鉛筆も非常に有り難き幸せであった。

客観的な目線で、正しい国語力でもって、私を育ててくださる方に出会えたこと。
高校に行っておいて、よかった。

ちろりさん、お元気でしょうか。
あの赤ペン、青鉛筆の添削して下さった原稿を、私は今尚大事にしております。

んで、最近もうちょっと自分自身国語力を磨く必要があると、痛感する今日この頃でございます。

2007年9月15日土曜日

正しいものなんて、無い

「せっかくA浜先生がおられるのだから、何か書いたら、A浜先生に見てもらいないさい。」

と、演劇科の若い講師の先生が仰った。

当時、文芸部に所属していた私は、会誌に詩を載せていた。恥かし気もなく。
詩を書いて見られたら恥かしいとか、日記を他人に見られたら恥かしいとか、そういった意味での羞恥心は、昔から私は欠落していた、と思う。
むしろ、「こんなの書いて、凄い」と、人に言って貰えるのが嬉しかった。…でも、よく考えるとそれって、「こんな恥かしいもんを、人前に出せるなんて、凄い」っていう意味だったのかな。
多分、そこは深く考え過ぎない方がいい。

さて、私は詩人でもあったA浜先生に、自分の詩を見て下さいますよう、お願い申し上げた。
そうして、私は2、3度、A浜先生に、詩の添削をして頂いた。
一番最初に見ていただいた詩を、現在見直してみると、卒倒しそうなくらいアホな詩なのである。お前は銀色夏生か!と突っ込みたくなるような詩だと言えば、ご理解頂けるだろうか。
銀色夏生で認められるんなら、私にだってこんなもんぐらい書けるわ!という思いも、当初無きにしも。
できればこんなもの見せて欲しくない…と、他人様が思うような詩に、A浜先生は詩人の感性で厳しく添削をして下さった。

「本来、詩も言葉も自由なものなので、それに対して「添削」するというのは、いいのかどうかわからんけど、こういう考え方もある、ぐらいに思っといて。」

ということで、見ていただいた経験が、後の私の貴重な宝となった。
何しろ見ていただいたのが、あの『走馬燈』のA浜先生である。
その時、先生が言い放った言葉が、5年、10年経って、次第に明らかに感じられるようになっていった。

 「正しいものなんて、無いんだ。
  間違ったものも、無いんだ。
  だから、自由なんだ。」

…深いなぁ。

とかく、何が正しいのか、これは間違っているのか、などと考えて迷い悩む、私は頭でっかちな人間だった。…そのままでは、私は損をする。
正しいもの、正しくないもの、と決めるのは己自身で、本来、それにがんじがらめにされる必要すらない、人間は自由なもの。

これは、私にとって必要な言葉だった。
本物の、言葉の「生命」を感じた。
詩人ってのは、やっぱり、凄いんだ。

2007年8月8日水曜日

デヴィッド・シルヴィアン

もう無い、と思っていた。

実家に帰ったら、私が高校時代に描いた絵が、まだあった。

デヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)が、「secrets of the beehive」のツアーで来日した時の、MusicLifeの切り抜きを写し取った絵。

あの頃私は、アホか、っつーぐらい、デヴィッド・シルヴィアンが好きだった。
髪型も、眼鏡も、私は思い切りデヴィッド・シルヴィアンをパクっていた。…まるでチェッカーズのファンが、チェッカーズの服や髪型を真似していたような現象だったのだが、そのことを誰も知る由はなかった。
周囲はデヴィッド・シルヴィアンを知らない人ばかりだったので、私の髪型の所以自体が、完全な自己満足だった。

しかし、デヴィッド・シルヴィアンの髪型をパクったと言っても、U2のボーノの髪型をパクったと言っても、当時はどっちでもよかった。どっちの髪型もこんな感じだったから。

デヴィッド・シルヴィアンのせいで気が狂ったのか、っつーくらい好きだった。
故に、精神的におかしくなってからの10年間は、デヴィッド・シルヴィアンの曲を封印していた。
10年経って、封印してあったデヴィッド・シルヴィアンの曲を解き放って、普通にこの曲が好きだと言えるようになった時、狂っていた私のある一時代が終わった気がした。

デヴィッド・シルヴィアンの世界に付き合うには、それなりに精神修養ができていないと難しい。狂うこと、そして狂いを制して乗り越えることは、私にとって大切な修行だった。

2007年8月4日土曜日

『走馬燈』

   遠い日の
   忘れがたみの
   絵馬ひとつ
   たてがみ荒れて
   夏は傾く

   牧場行く
   車の前の
   一瞬を
   影いなないて
   秋かけぬける

   凍てついて
   星が降りつむ
   冬の夜に
   ひづめの手入れ
   夢の夢の重たさ

   てのひらに
   角砂糖のせて
   春呼べば
   鼻面こする
   そのおもいでを

(秋浜悟史/作詞 宇野誠一郎/作曲 うた・岩崎宏美)

歌詞だけで、岩崎宏美の巧過ぎる歌声までお聴かせできないのが残念だ。
この歌詞をブログに記すことで、何かどこか著作権がどうとかの弊害があると、抗議がきた時に消せばいいか、と思って記す。

たまたま、家にこの歌の楽譜があった。
小さい頃に好きだったこの歌の楽譜を、高校時代のある日、ふと何気に押入れから見つけて、作詞がA浜先生だった事実を確認して、仰け反るほどに驚いた。

私はA浜先生に言った。「先生は、私の夢を壊した」と。
好きな曲だったのに、作詞が鬼のように怖いA浜先生だった…、と。

A浜先生は高らかに大笑いして、こう言った。

「詩人は裏切るんだよ。」

2007年7月6日金曜日

63

「63。…お前の年齢だよ!」

劇表現の授業。
演出家のA浜先生は、私に向かって言い放った。
本来、15歳であるはずの、私のあまりに老け込んだ「立ち居振る舞い」「頑迷さ」に、昭和一ケタ生まれのA浜先生ですら、呆れておられた。

当時、先生はまだ50代だったと思う。
にも関わらず、何の必然性で「63」という数字が突拍子も無く飛び出してきたのか、わからない。
ビートルズ時代にポール・マッカートニーが作った曲ですら「64」。…それとこの「63」は特に関係は無かろう。…
…と、A浜先生は詩人でもあったから、「63」と言われたとき、何とか「63」の意味を探そうと、一瞬のうちに色々考えてしまったけれど。…

本来、若さに満ち溢れているはずの15歳の乙女ならば、「63歳」などと言われると、深く傷つくものだと思うが、この時私は、自分で自分をやっていて、本当に63歳の魂が15歳の肉体の着ぐるみを着て歩いているような気がして、妙にしっくり、納得してしまった。

しかし、インディアンは生まれたときに「60歳」から数え始めて、還暦には「0歳」になるという話を、私はどこかで聞いて知っていたので、「インディアンなら、若い方」と、一人勝手に喜んだ。

このように、いい方に自分を誤解していくことを“ポジティブ幻想”というらしい。現代用語の基礎知識に載っていた。しかしふつうは、これを“勘違い”と言いはしないか。

私は、老け込んで暗い青春を送っていた割に、こういう妙なポジティブさが根幹にあったから、今まで生きて来れた。

2007年7月2日月曜日

親は子を喰う

世の中はキレイ事だらけ。

子を喰らう親に、親のツラをさせることを許す。
悲しいことに、世の中がそういうものであることを、私はフツーに受け止めて育った。

『親しらず子しらず』だったかな…?

一学年上の先輩らの合唱の曲。

…忘れた。
もう一年経っていたら、この記事を書くことすらできなかった。

脳裏に、断片だけが漂う。
東北の飢饉をうたった曲。
恩師の作詞か、アレンジかなんかだったかもしれない。
歌詞の内容は、「空腹に耐えかねて負うたわが子を喰らう」ような、そんな内容だった。

  「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」

と、衝撃的なセリフが入る。
本当に、そうだと思う。
それが、忘れられない。

2007年6月26日火曜日

奥歯に挟まったもの

私は、「尊敬する人」と訊かれて「両親」などと答える子らの気持ちが、全くわからなかった。
自分の世界で、最も酷い人間こそが親であることも、世の中には、ままある。
私が真っ当に育ったのは、親が偉かったせいじゃない。
私が頑張ったせいだ。
それを誰もわかってくれないから、私は私を褒めて育てる。

私は、「こどもという奴隷」として生まれた。

私は、親が世間体を取り繕うための材料だった。

 …(自主規制により中略)

親が子に無条件の愛を注ぐことが、普通のことだと考える“お幸せな人ら”が、「信じられな~い」と臭いものに蓋をした、その蓋の中に、臭いものにまみれて、私は居た。
“お幸せな人ら”は、キレイ事で本質をもみ消そうとする。

…私は、「信じられない」ような条件の中で、生きてきておったのか?
昔、モノか何か、牛馬のように嫁に出された娘やら、長男の代わりに兵隊に出された次男やら三男やら、口減らしで捨てられた赤子やら。…親なんて、割りにそういうことをフツーにやるものじゃないか?



「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」

2007年6月24日日曜日

思い出の深夜番組

深夜番組といえば、「私の青春は、深夜番組にありき!」と言ってしまってもいいのかもしれない。
高校時代に読売テレビで放送されていた『週刊TV広辞苑』のことは、閑話休題にも書いた。

『エンドレスナイト』、『パペポTV』、『らくごのご』…。
テレビ局にまで追っかけに行って、学校をサボって番組収録に出掛けて。…今思えば、私は何を血迷っていたのかと思う。

そうだ。

私、実は高校時分に『探偵ナイトスクープ!』の「小ネタ」に採用されたことがある。
なので“探偵手帳”を、愛用しておりましたよ。
…と言っても、何故かあまり信じてくれる人がいない。
それもそのはず。
色んなところを転々と移動しているうちに、残念ながら“探偵手帳”は紛失してしまった。
あればっかりはホント、大事にしておけばよかった。

2007年6月11日月曜日

厭世的な理由

お洒落って、どうするものなのか…?
そのことを、私は基本的に、よくわかっていない。
その点を、女子クラスゆえ、クラスメイトらの髪型の見よう見真似で、後に随分ためになったと思う。
しかしあくまで、ためになったのは後のことで、高校生だった当時、私にとっては彼女らのお洒落が、とても迷惑だった。

元が、私はダッサいモッサい女子で、お洒落がイマイチよくわからなかった。
育った環境のせいだろう。
私の家庭の雰囲気が、チャラチャラとめかしこむことを許さかった。
リボンひとつ髪の毛につけるにも、親の目を盗んでやらなければならなかった。
私が服やアクセサリーを自由に選べるようになったのは、家を出てからだった。

自由を掴み取るには、「大人」になる必要があった。

みんな、どうしてそんなに親と対等に付き合えるのだろう?
みんな、どうしてそんな高い服を着ているのだろう?
みんなの親らは、どうして服を買うお金をくれたりしているのだろう?

クラスメイトらは、服を自由に選んでいるようだった。
彼女らは服を買う時に、親同伴でなくてもいいらしかった。
私は親と店に行って、気に入ったものではなく、安くて可愛くないものを選ぶように仕向けられた。

クラスメイトらは可愛かった。
ゆえに私は、死にたかった。
きっと私は、女子高生である現実を扱いきれないが故に、「世捨て人」的キャラをこしらえて、そこに安住するようになったのだ。

2007年6月8日金曜日

それは、マイ・レボリューション

高校1年の時、私の髪型は「紀子さま」だった。
高校2年の時、「紀子さま」から、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という、ちょっとパンクな髪型にしてみた。
その髪型に変えた途端、担任も学科主任も、私が非行に走ろうとしている、と思ったらしい。

…こういうの、非行のはじまりですか?
悪事を行う気など無かったのだから、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という髪型にしたことは、むしろ「自我の芽生え」だったと、私は思う。

再三、先生らに「その髪型、ちゃんとしろ」と言われたが、「何でそこまで指図されなアカンねん!」と、私は逆にキレてみた。
同級生たちの中には、明らかにパーマをあてている子だっていたのに、私だけが注意されて先生の言いなりになっては、その後の人生、本当にやりきれない。
あの時、大人たちの言いなりにならなくて、本当によかった。

やがて、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」が伸び放題になってくる。
そうなった時点では、先生も親もその髪型に慣れてきて、何も言わなくなった。


私の中学・高校時代は、男子の丸刈りの校則が巷に溢れていた。
私が高校を卒業した二年後に、当時の文相が「丸刈りを見るとぞっとする」と発言して、校則の丸刈りが減ったのは、それ以降だったと思う。
今は、丸刈りもスキンヘッドも、“選べる”時代なのは好い。
KAT-TUNの田中聖みたいに、似合う男子は、どんどん剃ればいい。
ジェット・リーがリー・リン・チェイだった頃、『少林寺』を観てトキメいた私は、ストイックな坊主頭に、萌える。

2007年6月2日土曜日

美少年の虜

乙女らは、皆、美少年の虜になる。
そして、何故かその美少年は、ホモなのだ。…
クラスメイトには、ホモマンガの好きな子が、意外に多かった。

漫画家志望だった私は、中学の時、ノートにホモマンガを描いた。
それがクラス中で回し読みされ、先生に見つかって取り上げられ、…しかし取り上げたその先生こそ、こっそり『June』を読んでいるような、魂まで同性愛の美少年に根こそぎ奪われたような人だった。

さて、高校に進学し、そこで出会った級友の一人は、私が中学の時にホモマンガを描いていたことを知り、
「私も、マンガ描いてるの。見てくれない?」
そう言って、彼女は、彼女のオリジナルのホモマンガを取り出して見せてくれた。

私が描くホモマンガは、せいぜいキスどまりだったが、彼女の描いた方は、「こんな激しくいやらしい絡み…」というところまで、しっかりとペン入れされてあって、内心、私はドン引きしたのだった。
…こんな恥ずかしいもんを、他人に見せるなよ、と。
しかしそんなことを口にして、彼女を傷つけてはいかんと思い、「巧いなぁ~」などと、私は適当なことを言っていた。

「ホモ好きな人がクラスにいてよかった…。」
と、彼女は言った。
そして彼女は、自分がいかにホモが好きであるかを、熱く語った。

「私、美しいホモが大好きなの。」

「美少年がホモでないと、許せないの。」

「美しい男は、皆ホモでなければならないの。」…

前述のぴー先生とY先生をホモに仕立て上げたのは、彼女の仕業だった。
そんな彼女も、今は結婚して、ごく普通の暮らしを送っている。

2007年5月29日火曜日

芸術家の奇行

音楽の先生は、天才だった。男性の、仮に“Y”先生とする。

Y先生を受け入れる器としての地球は、多分小さかったと思う。
高らかに歌い、遊ぶようにピアノを弾きこなす。
その姿は、高校の音楽教師とは思えないほどの超人っぷりであった。
喩えるなら、『のだめ』の千秋さまの「ネジが狂った」カンジ。

やっぱり天才とは、どこかおかしいところがある。
有名な音楽家・マエストロの奇行の話は、割とよく聞く話。
Y先生は、…

カバンが嫌い。
…カバンを持たずに、いつでも紙袋を使っていた。破れたら買い換える。繰り返し。
炊きたての白いゴハンが嫌い。
…ウンコの臭いがするそうです。
インドネシアが大好き。
…毎年、旅行に出かける。授業のはじまりの挨拶は、インドネシア語の挨拶「パギ」。
何歳になっても、週刊マガジンを読まなければ心が落ち着かない。
…なんでも、『あしたのジョー』以来のマガジン愛読者だそうだ。
昔、キャンディーズの親衛隊だった。
…解散コンサートに行ったとか、行かなかったとか。

多分、他にも色々あるんだろうけれど、それは私の知るところではない。

このY先生と、前述の英語のぴー先生は、仲良しだった。
あまりに仲が良いので、この二人の「同性愛説」を流布する、腐女子なクラスメイトが現れた。

「先生たち、愛しあってるんでしょ♪」

と、ウレシ気に詰問するも、先生らの答えは決して「NO」ではなかった。
そのことが、腐女子らを狂喜乱舞させると、先生らは知ってか知らずか。

2007年5月25日金曜日

えいがの授業

当時はただの英語教師だと思えば、つまらない人間でしかなかった“ぴー”なのだが、高校を卒業して随分経ってから、私は“ぴー”の凄さに気づいた。
そう、学校の先生の凄さに気づくのは、私の多くの場合、生徒だった時代を過ぎた5年先、10年先に、じわじわと分かりはじめるのだ。
…現在の教育は、結果を急ぎ過ぎてはいないだろうか?

日本でも裁判の陪審員制度がはじまろうとしている、今日この頃。
ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』を観たのは、“ぴー”の授業の中でだった。
今こそ、この映画が真に意味を持つ時代なのかもしれない。

そして、私は「一番好きな映画?」と尋ねられると、ヴィム・ベンダースの『ベルリン天使の詩』だと答える。
この映画は、“ぴー”が授業を丸つぶしにして語り尽くした映画だった。
多分、“ぴー”からこの映画について聞かされなければ、観ることも無かった映画だ。

「ドイツ語が解れば一番いいんだけれど、この映画の天使のセリフは全部、詩になっているんです。」

ドイツ語は勿論、私にはわからない。
でも、そう。確かに天使のセリフは韻を踏んでいるのか、リズムあって気持ちがいい。

因みに。
この映画でダミエル(天使)役だったブルーノ・ガンツは、昨年話題になった『ヒトラー~最期の12日間~』の、ヒトラー役だった。

2007年5月21日月曜日

ぴーちゃん

大人にならないとわからない、人間の良さというものがある。
度々先生は、「ガキにはわかんねぇ!」というようなことを仰った。

そのように仰ったのは、とてもお洒落な、英語の先生だった。
淡いピンクやイエローのシャツを「着こなす」のは、お洒落の証拠。
先生の左の胸ポケットには、いつも違う色のネッカチーフが入っていた。
風貌はどことなく、加藤雅也に似ていたような気がする。

ツィードのジャケットなんかは、「着る」というより、ヘタをすると服に「着られる」感じがするものだ。
男のお洒落は、難しいんだろうなぁ、ということを、そこはかとなく教えてくれたのは、この先生だった。

このお洒落な英語の先生は、来ているシャツの色のために、“イエロー・P”とあだ名が付けられた。
「P」はピンクの「P」。
最終的に、“イエロー・P”が略されて進化して、先生のあだ名は“ぴー”になった。
しかし先生は、はどういう思考回路をしていたのか、自分が生徒たちに呼ばれている「ぴーちゃん」というあだ名を、「インドネシアの祟り神の名前」だと思い込んでいた。

この「ダンディーで嘘つきな男前」風のこの先生の内面は、実はただのヲタクだった。
先生は映画とプラモデルのマニアだった。
なので、この先生の授業は、しょっちゅう映画の話で潰された。

ただ、映画の話では授業は潰れたが、プラモデルの話で授業が潰れたことは無かった。
…マニアック過ぎるのだ、プラモデルだと。「その筋」の人でないと話にならないから、プラモデルでは無理なのだ。

しかし、不思議だ。
“ぴー”の英語の授業はマトモに聴いていなかったけれど、「映画」の話は、歳を経て、今なお心に焼き付いている。

2007年5月17日木曜日

妙味の「チン♪」

古典芸能って、ホントに難しいな…、と思ったのは。

浄瑠璃の三味線の太夫が、氷水をはった桶に手を入れて、指の感覚を無くして稽古を続けた、とか。
そうまでしても、

  今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…

の「チン♪」の音が、なかなかよくならない。
「ただ『チン』だけでは何の意味もなく、『チンウ』と“うなり”が活きてこそ…、云々」ということなのだそうだが。
悩み続けたこの太夫は、ある静かな夜、井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という音を耳にして、思わず「これだ」と呟いたとか。
井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という、一瞬の偶然が、太夫のその後の「チン♪」を完成に導いたらしい。

そこで文楽の先生が、「さぁ、聴き比べてみましょう!」と、問題の「チン♪」を録音したカセットを皆に聴かせてくれた。

  今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…

先生は何度も巻き戻して聴かせてくれた。しかし。
…はぁ?
私には全く、この「チン♪」の何がどうなのか、理解できなかった。


もしかすると、この違いがわかる、センシティブな感覚にまで到達することが、日本伝統文化の切なる願いなのかもしれない。
そして、このセンシティブな感覚を日々の暮らしの中にまで拡大すると、多分、人生はもの凄いことになるだろう、と後年になって思った。
ややもすると、この「チン♪」のような微細さは、日々の中で見落としがちになる。
それでは、多分、幸せも見落とすことになると思う。

…気をつけて生きよう、などと。

2007年5月13日日曜日

不可能な狂言作品

ところで。
最近、野村万蔵の企画で、『あなたの狂言作品を上演します』、というものがあるらしい。
狂言にしたら面白そうなストーリーの原案を、野村万蔵に送ればいいらしいのだが。
昨年私は、「あのへんの時代」というテーマで色々と、私が生まれるちょっと前の学生運動の話にハマっていたのだが。

狂言の舞台で、学生と機動隊を衝突させてみたら、どうだろう?



シテ(機動隊):
 これは国民(くにたみ)を護る業(なりわい)のものにてござる。
 やぁやぁ、 ここなものども。
 そなるバリケードとやらをうち砕いてしんぜようぞ。
アド(学生): 
 なんのなんの。みどもらのこなるゲバ棒にて、
 そちらをば、うちころいてやるわいやい。
シテ:
 如何なことを申す由なれば、ジェラルミンの楯をば
 うち立てんとす。いざ、やるまいぞ。
アド:
 みなのものども、火炎瓶を持てい。さぁ。やるまいぞ。
シテ・アド: 
 やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ…。

どこぞのフォーラムの余興とかでやれば、ウケると思うけど。…却下だろうな。
これは私の中だけの、幻の狂言作品だ。

2007年5月9日水曜日

睡眠学習

古典芸能の授業というものがあった。
校外学習で歌舞伎の舞台なども観に行った。
狂言と、文楽・浄瑠璃について、専門的なことを学んだ…はずだ。私以外は。

もちろん、学校に行くだけで精一杯の私にとって、この二つの授業中は、殆ど睡眠時間でしかなかった。
狂言の授業など、立って実際に「演る」授業だったにも関わらす、それで寝ている私は、どこまでふてぶてしい生徒だったのか。…いや、狂言独特の節回しが睡魔を誘ったので、仕方無かったのだ。
多分、狂言の先生は見て見ぬふりをしていてくれた。

文楽の先生など、
「いつか国語教師で食っていけなくなったら、文化サークルかなんかで、文楽の講師かなんかをやりたい。」
などと、切ない夢を初っ端に語って聞かせた。
しかもこの先生は、何も言わず、授業中にどこまでも私を寝かしつけてくれた。
…お陰で睡眠学習がはかどった。

そんな私のような者はともかく、中には卒業後も熱心に狂言や、近松門左衛門の研究や勉強に取り組んだ子らもいる。
寝ていた私でさえ、そこはかとなく古典芸能の楽しみ方が身に付いたとすると、これら無駄な授業ではなかったと思う。

2007年5月5日土曜日

ずっと僕は踊っていた

偶々、私は“やんぱっぱ”の授業で、ロシア語のプリントされたヘンなTシャツを羽織っていた。
それを見た“やんぱっぱ”は、そのロシア語を流暢に音読しはじめた。
「へぇ。先生、ロシア語読めるんですか?」
と、私が感嘆すると、“やんぱっぱ”は、「読めるよ」と。

聞くと、“やんぱっぱ”は戦前に生まれたと言う。そんな年寄りには全く見えないから、私は更に仰け反って驚いたものだ。
やんぱっぱ曰く、

「食べるものが無い時代も、僕はずっと路上で踊っていた。」…

16歳。
踊って、踊って、踊り続けて、お腹が空いていることを忘れていった。

それ以上“やんぱっぱ”の素性を、私は詳しく知らない。
“やんぱっぱ”が何ゆえバレエに目覚め、修行をどこで積んできたのか、それすら優秀な生徒じゃなかったから、深く言及するのに気後れしていた。
昭和一ケタ生まれでロシア語ができる、って言ったら、若い時代はかなり危険な目にも遭ったんじゃないか…?
きっと、ニジンスキーに憧れて、純粋に瞳を輝かせて、何も無い時代の16歳の“やんぱっぱ”は、一人、路上で踊り続けていたんじゃなかろうか…。

と、妄想すると、なんて劇的な半生だ。
あゝ、悔しい。ちゃんと“やんぱっぱ”の素性まで聞いておけばよかった。