元々、漫画家志望だった。
どうして私は、演劇なんかをしようと思ったんだろう?
「生涯舞台人」とか言っているプロの役者や演出家の気持ちが、実は、私には理解できなかった。
…
確か、「漫画家になるには、人間を洞察することが必要」だと、直感的に感じた。
「人間を洞察する」動機で演劇の世界に足を踏み入れたのだ。
お陰で、今ではエヅくほどに人間が苦手だ。
しかし、他人からは「人と関わるのが苦手だとは思えない」と、よく誤解されるために、今でも人知れず七転八倒することもある。
ということで、演劇・芝居の世界には、元々私は向いていなかった。芝居や舞台を司る神は、私には降臨しなかったのだ。…
それにしても、私、よく生きていたよ。
小学校1年の時、自由帳に書いた『銀河鉄道999』の“メーテル”の絵を友達に褒められて、有頂天になって以来、私は将来、漫画家になるものだと思い込んでいた。
その思い込みから目が覚めた頃、私は社会人になっていた。
その夢だけを安易に追いかけて、取り返しがつかないことになっていた。
しかし、死にたかった高校時代も、漫画家になる、という夢がどこか心にあったから、多分生きていられた。
高校の卒業のはなむけの言葉に、
夢が夢でなくなるのは 夢やぶれた時だけではないですよ
と書いた先生がいた。…確か、文楽の授業を担当していた、国語の先生の言葉だ。
その言葉どおり、夢が叶った時も、夢が夢ではなくなる。
この先生は多分、夢が叶った瞬間に、夢という原動力を失う「虚しさ」についても、この言葉に込めただろうと思われる。
夢は、叶えるためだけのものではなく、ただただ人間を突き動かす原動力として、幾つになっても、夢は夢として活躍し続ける。
だったら、どうせ叶わない夢と腹を括って、とてつもなく素晴らしい美しい夢を描いて、夢に突き動かされて生きていくのがいい。これはもう、夢と呼ぶより、完成されるべき自分自身の姿なのだな。
この歳になって、夢が何故必要なのか、体験を通じて知ることができたことは、好かったと思う。
- Proletarier労働歌★鉄の歌 (9)
- Proletarier労働歌★転勤の歌 (19)
- Proletarier労働歌★味噌と少しの野菜を喰らふ日々 (15)
- さかのぼりの青春 (50)
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2007年9月24日月曜日
悔いは無い
私は元々、漫画家志望だった。
その夢を叶えるべく、高校卒業後、描いたマンガを片手に東京に上京して、出版社のプロに見てもらいに行ったことがある。
何件か出版社を廻って、ボロクソにけなされて、最後に挑んでいった出版社が、実は小学館だった。
なぜ最後が小学館かというと、小学館のような凄い出版社の敷居を最初にまたぐのは恐れ多い、と思っていたから、一番最後だったのだ。
密かに憧れ続けた『プチ・フラワー』の編集長に出会った。
小さい目だと思っていた目が、いきなり大きな目に変わる、珍しい目のおじさんだった。
何でもこの人が、かの竹宮恵子、萩尾望都を生み出したベテラン編集者だというから、そんな凄い人に自分のマンガを見て貰うなんて、これはもの凄い経験である。
そしてこの編集長が、私に仰った言葉、
「話は書けるね。」
という一言が、後の私自身を支え続ける一言になった。
人間、自分を成長させてくれる大人物には、人生のどこかで出会っておくべきである。
結局、私が漫画家の夢を諦めたのは、思いのほか絵がヘタクソだったからなのだが。
その編集長には「自分の線が、まだ出ていない。あと300枚は描け」と助言を頂いたものの、私は「凄い編集者に会った」というところで得心がいき、悔いも情熱も、思い残すことが無くなった。
もしも300枚を描く情熱があって、しつこく持ち込み投稿をし続けていたならば、私は今頃、漫画家だった…?
その夢を叶えるべく、高校卒業後、描いたマンガを片手に東京に上京して、出版社のプロに見てもらいに行ったことがある。
何件か出版社を廻って、ボロクソにけなされて、最後に挑んでいった出版社が、実は小学館だった。
なぜ最後が小学館かというと、小学館のような凄い出版社の敷居を最初にまたぐのは恐れ多い、と思っていたから、一番最後だったのだ。
密かに憧れ続けた『プチ・フラワー』の編集長に出会った。
小さい目だと思っていた目が、いきなり大きな目に変わる、珍しい目のおじさんだった。
何でもこの人が、かの竹宮恵子、萩尾望都を生み出したベテラン編集者だというから、そんな凄い人に自分のマンガを見て貰うなんて、これはもの凄い経験である。
そしてこの編集長が、私に仰った言葉、
「話は書けるね。」
という一言が、後の私自身を支え続ける一言になった。
人間、自分を成長させてくれる大人物には、人生のどこかで出会っておくべきである。
結局、私が漫画家の夢を諦めたのは、思いのほか絵がヘタクソだったからなのだが。
その編集長には「自分の線が、まだ出ていない。あと300枚は描け」と助言を頂いたものの、私は「凄い編集者に会った」というところで得心がいき、悔いも情熱も、思い残すことが無くなった。
もしも300枚を描く情熱があって、しつこく持ち込み投稿をし続けていたならば、私は今頃、漫画家だった…?
2007年9月19日水曜日
ちろりさん
ほんのちょっとしたことで、思春期の青少年は、大きく育ちもするのである。
そうだ。
もう一人、私の書いたものに、丁寧に赤ペンを入れてくれた人がいた。
京大卒落研出身の秀才国語教師、通称“ちろりさん”。女性である。中村雅俊の青春モノのドラマが好き過ぎて、憧れて、うっかり教師を志してしまったという。可哀想に。
このちろりさんが、不登校の私が所属していた文芸部の顧問だった。
更に、ちろりさんも片道二時間半かけて通う私と同じ沿線から、同じ電車で通勤しておられた。
あの地獄の通学(通勤)路、私はボロボロに潰れていたが、ちろりさんは元気に遅れずに毎日通勤しておられた。羨ましい…。
この方、私が生まれて初めて書き上げた小説を手放しで褒めて下さった。
その上で、ちろりさんが特に「素晴らしい」と思う箇所に青鉛筆、誤字脱字などの校正に赤ペンを入れて下さった。
先生だから、ちゃんと「アメとムチ」を使い分ける。…というか、この場合、ムチどころか、私の将来を考えたら、あの赤ペンも、青鉛筆も非常に有り難き幸せであった。
客観的な目線で、正しい国語力でもって、私を育ててくださる方に出会えたこと。
高校に行っておいて、よかった。
ちろりさん、お元気でしょうか。
あの赤ペン、青鉛筆の添削して下さった原稿を、私は今尚大事にしております。
んで、最近もうちょっと自分自身国語力を磨く必要があると、痛感する今日この頃でございます。
そうだ。
もう一人、私の書いたものに、丁寧に赤ペンを入れてくれた人がいた。
京大卒落研出身の秀才国語教師、通称“ちろりさん”。女性である。中村雅俊の青春モノのドラマが好き過ぎて、憧れて、うっかり教師を志してしまったという。可哀想に。
このちろりさんが、不登校の私が所属していた文芸部の顧問だった。
更に、ちろりさんも片道二時間半かけて通う私と同じ沿線から、同じ電車で通勤しておられた。
あの地獄の通学(通勤)路、私はボロボロに潰れていたが、ちろりさんは元気に遅れずに毎日通勤しておられた。羨ましい…。
この方、私が生まれて初めて書き上げた小説を手放しで褒めて下さった。
その上で、ちろりさんが特に「素晴らしい」と思う箇所に青鉛筆、誤字脱字などの校正に赤ペンを入れて下さった。
先生だから、ちゃんと「アメとムチ」を使い分ける。…というか、この場合、ムチどころか、私の将来を考えたら、あの赤ペンも、青鉛筆も非常に有り難き幸せであった。
客観的な目線で、正しい国語力でもって、私を育ててくださる方に出会えたこと。
高校に行っておいて、よかった。
ちろりさん、お元気でしょうか。
あの赤ペン、青鉛筆の添削して下さった原稿を、私は今尚大事にしております。
んで、最近もうちょっと自分自身国語力を磨く必要があると、痛感する今日この頃でございます。
2007年9月15日土曜日
正しいものなんて、無い
「せっかくA浜先生がおられるのだから、何か書いたら、A浜先生に見てもらいないさい。」
と、演劇科の若い講師の先生が仰った。
当時、文芸部に所属していた私は、会誌に詩を載せていた。恥かし気もなく。
詩を書いて見られたら恥かしいとか、日記を他人に見られたら恥かしいとか、そういった意味での羞恥心は、昔から私は欠落していた、と思う。
むしろ、「こんなの書いて、凄い」と、人に言って貰えるのが嬉しかった。…でも、よく考えるとそれって、「こんな恥かしいもんを、人前に出せるなんて、凄い」っていう意味だったのかな。
多分、そこは深く考え過ぎない方がいい。
さて、私は詩人でもあったA浜先生に、自分の詩を見て下さいますよう、お願い申し上げた。
そうして、私は2、3度、A浜先生に、詩の添削をして頂いた。
一番最初に見ていただいた詩を、現在見直してみると、卒倒しそうなくらいアホな詩なのである。お前は銀色夏生か!と突っ込みたくなるような詩だと言えば、ご理解頂けるだろうか。
銀色夏生で認められるんなら、私にだってこんなもんぐらい書けるわ!という思いも、当初無きにしも。
できればこんなもの見せて欲しくない…と、他人様が思うような詩に、A浜先生は詩人の感性で厳しく添削をして下さった。
「本来、詩も言葉も自由なものなので、それに対して「添削」するというのは、いいのかどうかわからんけど、こういう考え方もある、ぐらいに思っといて。」
ということで、見ていただいた経験が、後の私の貴重な宝となった。
何しろ見ていただいたのが、あの『走馬燈』のA浜先生である。
その時、先生が言い放った言葉が、5年、10年経って、次第に明らかに感じられるようになっていった。
「正しいものなんて、無いんだ。
間違ったものも、無いんだ。
だから、自由なんだ。」
…深いなぁ。
とかく、何が正しいのか、これは間違っているのか、などと考えて迷い悩む、私は頭でっかちな人間だった。…そのままでは、私は損をする。
正しいもの、正しくないもの、と決めるのは己自身で、本来、それにがんじがらめにされる必要すらない、人間は自由なもの。
これは、私にとって必要な言葉だった。
本物の、言葉の「生命」を感じた。
詩人ってのは、やっぱり、凄いんだ。
と、演劇科の若い講師の先生が仰った。
当時、文芸部に所属していた私は、会誌に詩を載せていた。恥かし気もなく。
詩を書いて見られたら恥かしいとか、日記を他人に見られたら恥かしいとか、そういった意味での羞恥心は、昔から私は欠落していた、と思う。
むしろ、「こんなの書いて、凄い」と、人に言って貰えるのが嬉しかった。…でも、よく考えるとそれって、「こんな恥かしいもんを、人前に出せるなんて、凄い」っていう意味だったのかな。
多分、そこは深く考え過ぎない方がいい。
さて、私は詩人でもあったA浜先生に、自分の詩を見て下さいますよう、お願い申し上げた。
そうして、私は2、3度、A浜先生に、詩の添削をして頂いた。
一番最初に見ていただいた詩を、現在見直してみると、卒倒しそうなくらいアホな詩なのである。お前は銀色夏生か!と突っ込みたくなるような詩だと言えば、ご理解頂けるだろうか。
銀色夏生で認められるんなら、私にだってこんなもんぐらい書けるわ!という思いも、当初無きにしも。
できればこんなもの見せて欲しくない…と、他人様が思うような詩に、A浜先生は詩人の感性で厳しく添削をして下さった。
「本来、詩も言葉も自由なものなので、それに対して「添削」するというのは、いいのかどうかわからんけど、こういう考え方もある、ぐらいに思っといて。」
ということで、見ていただいた経験が、後の私の貴重な宝となった。
何しろ見ていただいたのが、あの『走馬燈』のA浜先生である。
その時、先生が言い放った言葉が、5年、10年経って、次第に明らかに感じられるようになっていった。
「正しいものなんて、無いんだ。
間違ったものも、無いんだ。
だから、自由なんだ。」
…深いなぁ。
とかく、何が正しいのか、これは間違っているのか、などと考えて迷い悩む、私は頭でっかちな人間だった。…そのままでは、私は損をする。
正しいもの、正しくないもの、と決めるのは己自身で、本来、それにがんじがらめにされる必要すらない、人間は自由なもの。
これは、私にとって必要な言葉だった。
本物の、言葉の「生命」を感じた。
詩人ってのは、やっぱり、凄いんだ。
2007年8月8日水曜日
デヴィッド・シルヴィアン
もう無い、と思っていた。
実家に帰ったら、私が高校時代に描いた絵が、まだあった。
デヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)が、「secrets of the beehive」のツアーで来日した時の、MusicLifeの切り抜きを写し取った絵。
あの頃私は、アホか、っつーぐらい、デヴィッド・シルヴィアンが好きだった。
髪型も、眼鏡も、私は思い切りデヴィッド・シルヴィアンをパクっていた。…まるでチェッカーズのファンが、チェッカーズの服や髪型を真似していたような現象だったのだが、そのことを誰も知る由はなかった。
周囲はデヴィッド・シルヴィアンを知らない人ばかりだったので、私の髪型の所以自体が、完全な自己満足だった。
しかし、デヴィッド・シルヴィアンの髪型をパクったと言っても、U2のボーノの髪型をパクったと言っても、当時はどっちでもよかった。どっちの髪型もこんな感じだったから。
デヴィッド・シルヴィアンのせいで気が狂ったのか、っつーくらい好きだった。
故に、精神的におかしくなってからの10年間は、デヴィッド・シルヴィアンの曲を封印していた。
10年経って、封印してあったデヴィッド・シルヴィアンの曲を解き放って、普通にこの曲が好きだと言えるようになった時、狂っていた私のある一時代が終わった気がした。
デヴィッド・シルヴィアンの世界に付き合うには、それなりに精神修養ができていないと難しい。狂うこと、そして狂いを制して乗り越えることは、私にとって大切な修行だった。
実家に帰ったら、私が高校時代に描いた絵が、まだあった。
デヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)が、「secrets of the beehive」のツアーで来日した時の、MusicLifeの切り抜きを写し取った絵。
あの頃私は、アホか、っつーぐらい、デヴィッド・シルヴィアンが好きだった。
髪型も、眼鏡も、私は思い切りデヴィッド・シルヴィアンをパクっていた。…まるでチェッカーズのファンが、チェッカーズの服や髪型を真似していたような現象だったのだが、そのことを誰も知る由はなかった。
周囲はデヴィッド・シルヴィアンを知らない人ばかりだったので、私の髪型の所以自体が、完全な自己満足だった。
しかし、デヴィッド・シルヴィアンの髪型をパクったと言っても、U2のボーノの髪型をパクったと言っても、当時はどっちでもよかった。どっちの髪型もこんな感じだったから。
デヴィッド・シルヴィアンのせいで気が狂ったのか、っつーくらい好きだった。
故に、精神的におかしくなってからの10年間は、デヴィッド・シルヴィアンの曲を封印していた。
10年経って、封印してあったデヴィッド・シルヴィアンの曲を解き放って、普通にこの曲が好きだと言えるようになった時、狂っていた私のある一時代が終わった気がした。
デヴィッド・シルヴィアンの世界に付き合うには、それなりに精神修養ができていないと難しい。狂うこと、そして狂いを制して乗り越えることは、私にとって大切な修行だった。
2007年8月4日土曜日
『走馬燈』
遠い日の
忘れがたみの
絵馬ひとつ
たてがみ荒れて
夏は傾く
牧場行く
車の前の
一瞬を
影いなないて
秋かけぬける
凍てついて
星が降りつむ
冬の夜に
ひづめの手入れ
夢の夢の重たさ
てのひらに
角砂糖のせて
春呼べば
鼻面こする
そのおもいでを
(秋浜悟史/作詞 宇野誠一郎/作曲 うた・岩崎宏美)
歌詞だけで、岩崎宏美の巧過ぎる歌声までお聴かせできないのが残念だ。
この歌詞をブログに記すことで、何かどこか著作権がどうとかの弊害があると、抗議がきた時に消せばいいか、と思って記す。
たまたま、家にこの歌の楽譜があった。
小さい頃に好きだったこの歌の楽譜を、高校時代のある日、ふと何気に押入れから見つけて、作詞がA浜先生だった事実を確認して、仰け反るほどに驚いた。
私はA浜先生に言った。「先生は、私の夢を壊した」と。
好きな曲だったのに、作詞が鬼のように怖いA浜先生だった…、と。
A浜先生は高らかに大笑いして、こう言った。
「詩人は裏切るんだよ。」
忘れがたみの
絵馬ひとつ
たてがみ荒れて
夏は傾く
牧場行く
車の前の
一瞬を
影いなないて
秋かけぬける
凍てついて
星が降りつむ
冬の夜に
ひづめの手入れ
夢の夢の重たさ
てのひらに
角砂糖のせて
春呼べば
鼻面こする
そのおもいでを
(秋浜悟史/作詞 宇野誠一郎/作曲 うた・岩崎宏美)
歌詞だけで、岩崎宏美の巧過ぎる歌声までお聴かせできないのが残念だ。
この歌詞をブログに記すことで、何かどこか著作権がどうとかの弊害があると、抗議がきた時に消せばいいか、と思って記す。
たまたま、家にこの歌の楽譜があった。
小さい頃に好きだったこの歌の楽譜を、高校時代のある日、ふと何気に押入れから見つけて、作詞がA浜先生だった事実を確認して、仰け反るほどに驚いた。
私はA浜先生に言った。「先生は、私の夢を壊した」と。
好きな曲だったのに、作詞が鬼のように怖いA浜先生だった…、と。
A浜先生は高らかに大笑いして、こう言った。
「詩人は裏切るんだよ。」
2007年7月6日金曜日
63
「63。…お前の年齢だよ!」
劇表現の授業。
演出家のA浜先生は、私に向かって言い放った。
本来、15歳であるはずの、私のあまりに老け込んだ「立ち居振る舞い」「頑迷さ」に、昭和一ケタ生まれのA浜先生ですら、呆れておられた。
当時、先生はまだ50代だったと思う。
にも関わらず、何の必然性で「63」という数字が突拍子も無く飛び出してきたのか、わからない。
ビートルズ時代にポール・マッカートニーが作った曲ですら「64」。…それとこの「63」は特に関係は無かろう。…
…と、A浜先生は詩人でもあったから、「63」と言われたとき、何とか「63」の意味を探そうと、一瞬のうちに色々考えてしまったけれど。…
本来、若さに満ち溢れているはずの15歳の乙女ならば、「63歳」などと言われると、深く傷つくものだと思うが、この時私は、自分で自分をやっていて、本当に63歳の魂が15歳の肉体の着ぐるみを着て歩いているような気がして、妙にしっくり、納得してしまった。
しかし、インディアンは生まれたときに「60歳」から数え始めて、還暦には「0歳」になるという話を、私はどこかで聞いて知っていたので、「インディアンなら、若い方」と、一人勝手に喜んだ。
このように、いい方に自分を誤解していくことを“ポジティブ幻想”というらしい。現代用語の基礎知識に載っていた。しかしふつうは、これを“勘違い”と言いはしないか。
私は、老け込んで暗い青春を送っていた割に、こういう妙なポジティブさが根幹にあったから、今まで生きて来れた。
劇表現の授業。
演出家のA浜先生は、私に向かって言い放った。
本来、15歳であるはずの、私のあまりに老け込んだ「立ち居振る舞い」「頑迷さ」に、昭和一ケタ生まれのA浜先生ですら、呆れておられた。
当時、先生はまだ50代だったと思う。
にも関わらず、何の必然性で「63」という数字が突拍子も無く飛び出してきたのか、わからない。
ビートルズ時代にポール・マッカートニーが作った曲ですら「64」。…それとこの「63」は特に関係は無かろう。…
…と、A浜先生は詩人でもあったから、「63」と言われたとき、何とか「63」の意味を探そうと、一瞬のうちに色々考えてしまったけれど。…
本来、若さに満ち溢れているはずの15歳の乙女ならば、「63歳」などと言われると、深く傷つくものだと思うが、この時私は、自分で自分をやっていて、本当に63歳の魂が15歳の肉体の着ぐるみを着て歩いているような気がして、妙にしっくり、納得してしまった。
しかし、インディアンは生まれたときに「60歳」から数え始めて、還暦には「0歳」になるという話を、私はどこかで聞いて知っていたので、「インディアンなら、若い方」と、一人勝手に喜んだ。
このように、いい方に自分を誤解していくことを“ポジティブ幻想”というらしい。現代用語の基礎知識に載っていた。しかしふつうは、これを“勘違い”と言いはしないか。
私は、老け込んで暗い青春を送っていた割に、こういう妙なポジティブさが根幹にあったから、今まで生きて来れた。
2007年7月2日月曜日
親は子を喰う
世の中はキレイ事だらけ。
子を喰らう親に、親のツラをさせることを許す。
悲しいことに、世の中がそういうものであることを、私はフツーに受け止めて育った。
『親しらず子しらず』だったかな…?
一学年上の先輩らの合唱の曲。
…忘れた。
もう一年経っていたら、この記事を書くことすらできなかった。
脳裏に、断片だけが漂う。
東北の飢饉をうたった曲。
恩師の作詞か、アレンジかなんかだったかもしれない。
歌詞の内容は、「空腹に耐えかねて負うたわが子を喰らう」ような、そんな内容だった。
「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」
と、衝撃的なセリフが入る。
本当に、そうだと思う。
それが、忘れられない。
子を喰らう親に、親のツラをさせることを許す。
悲しいことに、世の中がそういうものであることを、私はフツーに受け止めて育った。
『親しらず子しらず』だったかな…?
一学年上の先輩らの合唱の曲。
…忘れた。
もう一年経っていたら、この記事を書くことすらできなかった。
脳裏に、断片だけが漂う。
東北の飢饉をうたった曲。
恩師の作詞か、アレンジかなんかだったかもしれない。
歌詞の内容は、「空腹に耐えかねて負うたわが子を喰らう」ような、そんな内容だった。
「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」
と、衝撃的なセリフが入る。
本当に、そうだと思う。
それが、忘れられない。
2007年6月26日火曜日
奥歯に挟まったもの
私は、「尊敬する人」と訊かれて「両親」などと答える子らの気持ちが、全くわからなかった。
自分の世界で、最も酷い人間こそが親であることも、世の中には、ままある。
私が真っ当に育ったのは、親が偉かったせいじゃない。
私が頑張ったせいだ。
それを誰もわかってくれないから、私は私を褒めて育てる。
私は、「こどもという奴隷」として生まれた。
私は、親が世間体を取り繕うための材料だった。
…(自主規制により中略)
親が子に無条件の愛を注ぐことが、普通のことだと考える“お幸せな人ら”が、「信じられな~い」と臭いものに蓋をした、その蓋の中に、臭いものにまみれて、私は居た。
“お幸せな人ら”は、キレイ事で本質をもみ消そうとする。
…私は、「信じられない」ような条件の中で、生きてきておったのか?
昔、モノか何か、牛馬のように嫁に出された娘やら、長男の代わりに兵隊に出された次男やら三男やら、口減らしで捨てられた赤子やら。…親なんて、割りにそういうことをフツーにやるものじゃないか?
…
「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」
自分の世界で、最も酷い人間こそが親であることも、世の中には、ままある。
私が真っ当に育ったのは、親が偉かったせいじゃない。
私が頑張ったせいだ。
それを誰もわかってくれないから、私は私を褒めて育てる。
私は、「こどもという奴隷」として生まれた。
私は、親が世間体を取り繕うための材料だった。
…(自主規制により中略)
親が子に無条件の愛を注ぐことが、普通のことだと考える“お幸せな人ら”が、「信じられな~い」と臭いものに蓋をした、その蓋の中に、臭いものにまみれて、私は居た。
“お幸せな人ら”は、キレイ事で本質をもみ消そうとする。
…私は、「信じられない」ような条件の中で、生きてきておったのか?
昔、モノか何か、牛馬のように嫁に出された娘やら、長男の代わりに兵隊に出された次男やら三男やら、口減らしで捨てられた赤子やら。…親なんて、割りにそういうことをフツーにやるものじゃないか?
…
「親は子を喰う!子は親を喰えるか!」
2007年6月24日日曜日
思い出の深夜番組
深夜番組といえば、「私の青春は、深夜番組にありき!」と言ってしまってもいいのかもしれない。
高校時代に読売テレビで放送されていた『週刊TV広辞苑』のことは、閑話休題にも書いた。
『エンドレスナイト』、『パペポTV』、『らくごのご』…。
テレビ局にまで追っかけに行って、学校をサボって番組収録に出掛けて。…今思えば、私は何を血迷っていたのかと思う。
そうだ。
私、実は高校時分に『探偵ナイトスクープ!』の「小ネタ」に採用されたことがある。
なので“探偵手帳”を、愛用しておりましたよ。
…と言っても、何故かあまり信じてくれる人がいない。
それもそのはず。
色んなところを転々と移動しているうちに、残念ながら“探偵手帳”は紛失してしまった。
あればっかりはホント、大事にしておけばよかった。
高校時代に読売テレビで放送されていた『週刊TV広辞苑』のことは、閑話休題にも書いた。
『エンドレスナイト』、『パペポTV』、『らくごのご』…。
テレビ局にまで追っかけに行って、学校をサボって番組収録に出掛けて。…今思えば、私は何を血迷っていたのかと思う。
そうだ。
私、実は高校時分に『探偵ナイトスクープ!』の「小ネタ」に採用されたことがある。
なので“探偵手帳”を、愛用しておりましたよ。
…と言っても、何故かあまり信じてくれる人がいない。
それもそのはず。
色んなところを転々と移動しているうちに、残念ながら“探偵手帳”は紛失してしまった。
あればっかりはホント、大事にしておけばよかった。
2007年6月11日月曜日
厭世的な理由
お洒落って、どうするものなのか…?
そのことを、私は基本的に、よくわかっていない。
その点を、女子クラスゆえ、クラスメイトらの髪型の見よう見真似で、後に随分ためになったと思う。
しかしあくまで、ためになったのは後のことで、高校生だった当時、私にとっては彼女らのお洒落が、とても迷惑だった。
元が、私はダッサいモッサい女子で、お洒落がイマイチよくわからなかった。
育った環境のせいだろう。
私の家庭の雰囲気が、チャラチャラとめかしこむことを許さかった。
リボンひとつ髪の毛につけるにも、親の目を盗んでやらなければならなかった。
私が服やアクセサリーを自由に選べるようになったのは、家を出てからだった。
自由を掴み取るには、「大人」になる必要があった。
みんな、どうしてそんなに親と対等に付き合えるのだろう?
みんな、どうしてそんな高い服を着ているのだろう?
みんなの親らは、どうして服を買うお金をくれたりしているのだろう?
クラスメイトらは、服を自由に選んでいるようだった。
彼女らは服を買う時に、親同伴でなくてもいいらしかった。
私は親と店に行って、気に入ったものではなく、安くて可愛くないものを選ぶように仕向けられた。
クラスメイトらは可愛かった。
ゆえに私は、死にたかった。
きっと私は、女子高生である現実を扱いきれないが故に、「世捨て人」的キャラをこしらえて、そこに安住するようになったのだ。
そのことを、私は基本的に、よくわかっていない。
その点を、女子クラスゆえ、クラスメイトらの髪型の見よう見真似で、後に随分ためになったと思う。
しかしあくまで、ためになったのは後のことで、高校生だった当時、私にとっては彼女らのお洒落が、とても迷惑だった。
元が、私はダッサいモッサい女子で、お洒落がイマイチよくわからなかった。
育った環境のせいだろう。
私の家庭の雰囲気が、チャラチャラとめかしこむことを許さかった。
リボンひとつ髪の毛につけるにも、親の目を盗んでやらなければならなかった。
私が服やアクセサリーを自由に選べるようになったのは、家を出てからだった。
自由を掴み取るには、「大人」になる必要があった。
みんな、どうしてそんなに親と対等に付き合えるのだろう?
みんな、どうしてそんな高い服を着ているのだろう?
みんなの親らは、どうして服を買うお金をくれたりしているのだろう?
クラスメイトらは、服を自由に選んでいるようだった。
彼女らは服を買う時に、親同伴でなくてもいいらしかった。
私は親と店に行って、気に入ったものではなく、安くて可愛くないものを選ぶように仕向けられた。
クラスメイトらは可愛かった。
ゆえに私は、死にたかった。
きっと私は、女子高生である現実を扱いきれないが故に、「世捨て人」的キャラをこしらえて、そこに安住するようになったのだ。
2007年6月8日金曜日
それは、マイ・レボリューション
高校1年の時、私の髪型は「紀子さま」だった。
高校2年の時、「紀子さま」から、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という、ちょっとパンクな髪型にしてみた。
その髪型に変えた途端、担任も学科主任も、私が非行に走ろうとしている、と思ったらしい。
…こういうの、非行のはじまりですか?
悪事を行う気など無かったのだから、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という髪型にしたことは、むしろ「自我の芽生え」だったと、私は思う。
再三、先生らに「その髪型、ちゃんとしろ」と言われたが、「何でそこまで指図されなアカンねん!」と、私は逆にキレてみた。
同級生たちの中には、明らかにパーマをあてている子だっていたのに、私だけが注意されて先生の言いなりになっては、その後の人生、本当にやりきれない。
あの時、大人たちの言いなりにならなくて、本当によかった。
やがて、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」が伸び放題になってくる。
そうなった時点では、先生も親もその髪型に慣れてきて、何も言わなくなった。
…
私の中学・高校時代は、男子の丸刈りの校則が巷に溢れていた。
私が高校を卒業した二年後に、当時の文相が「丸刈りを見るとぞっとする」と発言して、校則の丸刈りが減ったのは、それ以降だったと思う。
今は、丸刈りもスキンヘッドも、“選べる”時代なのは好い。
KAT-TUNの田中聖みたいに、似合う男子は、どんどん剃ればいい。
ジェット・リーがリー・リン・チェイだった頃、『少林寺』を観てトキメいた私は、ストイックな坊主頭に、萌える。
高校2年の時、「紀子さま」から、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という、ちょっとパンクな髪型にしてみた。
その髪型に変えた途端、担任も学科主任も、私が非行に走ろうとしている、と思ったらしい。
…こういうの、非行のはじまりですか?
悪事を行う気など無かったのだから、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」という髪型にしたことは、むしろ「自我の芽生え」だったと、私は思う。
再三、先生らに「その髪型、ちゃんとしろ」と言われたが、「何でそこまで指図されなアカンねん!」と、私は逆にキレてみた。
同級生たちの中には、明らかにパーマをあてている子だっていたのに、私だけが注意されて先生の言いなりになっては、その後の人生、本当にやりきれない。
あの時、大人たちの言いなりにならなくて、本当によかった。
やがて、「前から見たらショート、後ろから見たらロング」が伸び放題になってくる。
そうなった時点では、先生も親もその髪型に慣れてきて、何も言わなくなった。
…
私の中学・高校時代は、男子の丸刈りの校則が巷に溢れていた。
私が高校を卒業した二年後に、当時の文相が「丸刈りを見るとぞっとする」と発言して、校則の丸刈りが減ったのは、それ以降だったと思う。
今は、丸刈りもスキンヘッドも、“選べる”時代なのは好い。
KAT-TUNの田中聖みたいに、似合う男子は、どんどん剃ればいい。
ジェット・リーがリー・リン・チェイだった頃、『少林寺』を観てトキメいた私は、ストイックな坊主頭に、萌える。
2007年6月2日土曜日
美少年の虜
乙女らは、皆、美少年の虜になる。
そして、何故かその美少年は、ホモなのだ。…
クラスメイトには、ホモマンガの好きな子が、意外に多かった。
漫画家志望だった私は、中学の時、ノートにホモマンガを描いた。
それがクラス中で回し読みされ、先生に見つかって取り上げられ、…しかし取り上げたその先生こそ、こっそり『June』を読んでいるような、魂まで同性愛の美少年に根こそぎ奪われたような人だった。
さて、高校に進学し、そこで出会った級友の一人は、私が中学の時にホモマンガを描いていたことを知り、
「私も、マンガ描いてるの。見てくれない?」
そう言って、彼女は、彼女のオリジナルのホモマンガを取り出して見せてくれた。
私が描くホモマンガは、せいぜいキスどまりだったが、彼女の描いた方は、「こんな激しくいやらしい絡み…」というところまで、しっかりとペン入れされてあって、内心、私はドン引きしたのだった。
…こんな恥ずかしいもんを、他人に見せるなよ、と。
しかしそんなことを口にして、彼女を傷つけてはいかんと思い、「巧いなぁ~」などと、私は適当なことを言っていた。
「ホモ好きな人がクラスにいてよかった…。」
と、彼女は言った。
そして彼女は、自分がいかにホモが好きであるかを、熱く語った。
「私、美しいホモが大好きなの。」
「美少年がホモでないと、許せないの。」
「美しい男は、皆ホモでなければならないの。」…
前述のぴー先生とY先生をホモに仕立て上げたのは、彼女の仕業だった。
そんな彼女も、今は結婚して、ごく普通の暮らしを送っている。
そして、何故かその美少年は、ホモなのだ。…
クラスメイトには、ホモマンガの好きな子が、意外に多かった。
漫画家志望だった私は、中学の時、ノートにホモマンガを描いた。
それがクラス中で回し読みされ、先生に見つかって取り上げられ、…しかし取り上げたその先生こそ、こっそり『June』を読んでいるような、魂まで同性愛の美少年に根こそぎ奪われたような人だった。
さて、高校に進学し、そこで出会った級友の一人は、私が中学の時にホモマンガを描いていたことを知り、
「私も、マンガ描いてるの。見てくれない?」
そう言って、彼女は、彼女のオリジナルのホモマンガを取り出して見せてくれた。
私が描くホモマンガは、せいぜいキスどまりだったが、彼女の描いた方は、「こんな激しくいやらしい絡み…」というところまで、しっかりとペン入れされてあって、内心、私はドン引きしたのだった。
…こんな恥ずかしいもんを、他人に見せるなよ、と。
しかしそんなことを口にして、彼女を傷つけてはいかんと思い、「巧いなぁ~」などと、私は適当なことを言っていた。
「ホモ好きな人がクラスにいてよかった…。」
と、彼女は言った。
そして彼女は、自分がいかにホモが好きであるかを、熱く語った。
「私、美しいホモが大好きなの。」
「美少年がホモでないと、許せないの。」
「美しい男は、皆ホモでなければならないの。」…
前述のぴー先生とY先生をホモに仕立て上げたのは、彼女の仕業だった。
そんな彼女も、今は結婚して、ごく普通の暮らしを送っている。
2007年5月29日火曜日
芸術家の奇行
音楽の先生は、天才だった。男性の、仮に“Y”先生とする。
Y先生を受け入れる器としての地球は、多分小さかったと思う。
高らかに歌い、遊ぶようにピアノを弾きこなす。
その姿は、高校の音楽教師とは思えないほどの超人っぷりであった。
喩えるなら、『のだめ』の千秋さまの「ネジが狂った」カンジ。
やっぱり天才とは、どこかおかしいところがある。
有名な音楽家・マエストロの奇行の話は、割とよく聞く話。
Y先生は、…
カバンが嫌い。
…カバンを持たずに、いつでも紙袋を使っていた。破れたら買い換える。繰り返し。
炊きたての白いゴハンが嫌い。
…ウンコの臭いがするそうです。
インドネシアが大好き。
…毎年、旅行に出かける。授業のはじまりの挨拶は、インドネシア語の挨拶「パギ」。
何歳になっても、週刊マガジンを読まなければ心が落ち着かない。
…なんでも、『あしたのジョー』以来のマガジン愛読者だそうだ。
昔、キャンディーズの親衛隊だった。
…解散コンサートに行ったとか、行かなかったとか。
多分、他にも色々あるんだろうけれど、それは私の知るところではない。
このY先生と、前述の英語のぴー先生は、仲良しだった。
あまりに仲が良いので、この二人の「同性愛説」を流布する、腐女子なクラスメイトが現れた。
「先生たち、愛しあってるんでしょ♪」
と、ウレシ気に詰問するも、先生らの答えは決して「NO」ではなかった。
そのことが、腐女子らを狂喜乱舞させると、先生らは知ってか知らずか。
Y先生を受け入れる器としての地球は、多分小さかったと思う。
高らかに歌い、遊ぶようにピアノを弾きこなす。
その姿は、高校の音楽教師とは思えないほどの超人っぷりであった。
喩えるなら、『のだめ』の千秋さまの「ネジが狂った」カンジ。
やっぱり天才とは、どこかおかしいところがある。
有名な音楽家・マエストロの奇行の話は、割とよく聞く話。
Y先生は、…
カバンが嫌い。
…カバンを持たずに、いつでも紙袋を使っていた。破れたら買い換える。繰り返し。
炊きたての白いゴハンが嫌い。
…ウンコの臭いがするそうです。
インドネシアが大好き。
…毎年、旅行に出かける。授業のはじまりの挨拶は、インドネシア語の挨拶「パギ」。
何歳になっても、週刊マガジンを読まなければ心が落ち着かない。
…なんでも、『あしたのジョー』以来のマガジン愛読者だそうだ。
昔、キャンディーズの親衛隊だった。
…解散コンサートに行ったとか、行かなかったとか。
多分、他にも色々あるんだろうけれど、それは私の知るところではない。
このY先生と、前述の英語のぴー先生は、仲良しだった。
あまりに仲が良いので、この二人の「同性愛説」を流布する、腐女子なクラスメイトが現れた。
「先生たち、愛しあってるんでしょ♪」
と、ウレシ気に詰問するも、先生らの答えは決して「NO」ではなかった。
そのことが、腐女子らを狂喜乱舞させると、先生らは知ってか知らずか。
2007年5月25日金曜日
えいがの授業
当時はただの英語教師だと思えば、つまらない人間でしかなかった“ぴー”なのだが、高校を卒業して随分経ってから、私は“ぴー”の凄さに気づいた。
そう、学校の先生の凄さに気づくのは、私の多くの場合、生徒だった時代を過ぎた5年先、10年先に、じわじわと分かりはじめるのだ。
…現在の教育は、結果を急ぎ過ぎてはいないだろうか?
日本でも裁判の陪審員制度がはじまろうとしている、今日この頃。
ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』を観たのは、“ぴー”の授業の中でだった。
今こそ、この映画が真に意味を持つ時代なのかもしれない。
そして、私は「一番好きな映画?」と尋ねられると、ヴィム・ベンダースの『ベルリン天使の詩』だと答える。
この映画は、“ぴー”が授業を丸つぶしにして語り尽くした映画だった。
多分、“ぴー”からこの映画について聞かされなければ、観ることも無かった映画だ。
「ドイツ語が解れば一番いいんだけれど、この映画の天使のセリフは全部、詩になっているんです。」
ドイツ語は勿論、私にはわからない。
でも、そう。確かに天使のセリフは韻を踏んでいるのか、リズムあって気持ちがいい。
因みに。
この映画でダミエル(天使)役だったブルーノ・ガンツは、昨年話題になった『ヒトラー~最期の12日間~』の、ヒトラー役だった。
そう、学校の先生の凄さに気づくのは、私の多くの場合、生徒だった時代を過ぎた5年先、10年先に、じわじわと分かりはじめるのだ。
…現在の教育は、結果を急ぎ過ぎてはいないだろうか?
日本でも裁判の陪審員制度がはじまろうとしている、今日この頃。
ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』を観たのは、“ぴー”の授業の中でだった。
今こそ、この映画が真に意味を持つ時代なのかもしれない。
そして、私は「一番好きな映画?」と尋ねられると、ヴィム・ベンダースの『ベルリン天使の詩』だと答える。
この映画は、“ぴー”が授業を丸つぶしにして語り尽くした映画だった。
多分、“ぴー”からこの映画について聞かされなければ、観ることも無かった映画だ。
「ドイツ語が解れば一番いいんだけれど、この映画の天使のセリフは全部、詩になっているんです。」
ドイツ語は勿論、私にはわからない。
でも、そう。確かに天使のセリフは韻を踏んでいるのか、リズムあって気持ちがいい。
因みに。
この映画でダミエル(天使)役だったブルーノ・ガンツは、昨年話題になった『ヒトラー~最期の12日間~』の、ヒトラー役だった。
2007年5月21日月曜日
ぴーちゃん
大人にならないとわからない、人間の良さというものがある。
度々先生は、「ガキにはわかんねぇ!」というようなことを仰った。
そのように仰ったのは、とてもお洒落な、英語の先生だった。
淡いピンクやイエローのシャツを「着こなす」のは、お洒落の証拠。
先生の左の胸ポケットには、いつも違う色のネッカチーフが入っていた。
風貌はどことなく、加藤雅也に似ていたような気がする。
ツィードのジャケットなんかは、「着る」というより、ヘタをすると服に「着られる」感じがするものだ。
男のお洒落は、難しいんだろうなぁ、ということを、そこはかとなく教えてくれたのは、この先生だった。
このお洒落な英語の先生は、来ているシャツの色のために、“イエロー・P”とあだ名が付けられた。
「P」はピンクの「P」。
最終的に、“イエロー・P”が略されて進化して、先生のあだ名は“ぴー”になった。
しかし先生は、はどういう思考回路をしていたのか、自分が生徒たちに呼ばれている「ぴーちゃん」というあだ名を、「インドネシアの祟り神の名前」だと思い込んでいた。
この「ダンディーで嘘つきな男前」風のこの先生の内面は、実はただのヲタクだった。
先生は映画とプラモデルのマニアだった。
なので、この先生の授業は、しょっちゅう映画の話で潰された。
ただ、映画の話では授業は潰れたが、プラモデルの話で授業が潰れたことは無かった。
…マニアック過ぎるのだ、プラモデルだと。「その筋」の人でないと話にならないから、プラモデルでは無理なのだ。
しかし、不思議だ。
“ぴー”の英語の授業はマトモに聴いていなかったけれど、「映画」の話は、歳を経て、今なお心に焼き付いている。
度々先生は、「ガキにはわかんねぇ!」というようなことを仰った。
そのように仰ったのは、とてもお洒落な、英語の先生だった。
淡いピンクやイエローのシャツを「着こなす」のは、お洒落の証拠。
先生の左の胸ポケットには、いつも違う色のネッカチーフが入っていた。
風貌はどことなく、加藤雅也に似ていたような気がする。
ツィードのジャケットなんかは、「着る」というより、ヘタをすると服に「着られる」感じがするものだ。
男のお洒落は、難しいんだろうなぁ、ということを、そこはかとなく教えてくれたのは、この先生だった。
このお洒落な英語の先生は、来ているシャツの色のために、“イエロー・P”とあだ名が付けられた。
「P」はピンクの「P」。
最終的に、“イエロー・P”が略されて進化して、先生のあだ名は“ぴー”になった。
しかし先生は、はどういう思考回路をしていたのか、自分が生徒たちに呼ばれている「ぴーちゃん」というあだ名を、「インドネシアの祟り神の名前」だと思い込んでいた。
この「ダンディーで嘘つきな男前」風のこの先生の内面は、実はただのヲタクだった。
先生は映画とプラモデルのマニアだった。
なので、この先生の授業は、しょっちゅう映画の話で潰された。
ただ、映画の話では授業は潰れたが、プラモデルの話で授業が潰れたことは無かった。
…マニアック過ぎるのだ、プラモデルだと。「その筋」の人でないと話にならないから、プラモデルでは無理なのだ。
しかし、不思議だ。
“ぴー”の英語の授業はマトモに聴いていなかったけれど、「映画」の話は、歳を経て、今なお心に焼き付いている。
2007年5月17日木曜日
妙味の「チン♪」
古典芸能って、ホントに難しいな…、と思ったのは。
浄瑠璃の三味線の太夫が、氷水をはった桶に手を入れて、指の感覚を無くして稽古を続けた、とか。
そうまでしても、
今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…
の「チン♪」の音が、なかなかよくならない。
「ただ『チン』だけでは何の意味もなく、『チンウ』と“うなり”が活きてこそ…、云々」ということなのだそうだが。
悩み続けたこの太夫は、ある静かな夜、井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という音を耳にして、思わず「これだ」と呟いたとか。
井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という、一瞬の偶然が、太夫のその後の「チン♪」を完成に導いたらしい。
そこで文楽の先生が、「さぁ、聴き比べてみましょう!」と、問題の「チン♪」を録音したカセットを皆に聴かせてくれた。
今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…
先生は何度も巻き戻して聴かせてくれた。しかし。
…はぁ?
私には全く、この「チン♪」の何がどうなのか、理解できなかった。
…
もしかすると、この違いがわかる、センシティブな感覚にまで到達することが、日本伝統文化の切なる願いなのかもしれない。
そして、このセンシティブな感覚を日々の暮らしの中にまで拡大すると、多分、人生はもの凄いことになるだろう、と後年になって思った。
ややもすると、この「チン♪」のような微細さは、日々の中で見落としがちになる。
それでは、多分、幸せも見落とすことになると思う。
…気をつけて生きよう、などと。
浄瑠璃の三味線の太夫が、氷水をはった桶に手を入れて、指の感覚を無くして稽古を続けた、とか。
そうまでしても、
今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…
の「チン♪」の音が、なかなかよくならない。
「ただ『チン』だけでは何の意味もなく、『チンウ』と“うなり”が活きてこそ…、云々」ということなのだそうだが。
悩み続けたこの太夫は、ある静かな夜、井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という音を耳にして、思わず「これだ」と呟いたとか。
井戸に落ちる雫の「チョピーン…」という、一瞬の偶然が、太夫のその後の「チン♪」を完成に導いたらしい。
そこで文楽の先生が、「さぁ、聴き比べてみましょう!」と、問題の「チン♪」を録音したカセットを皆に聴かせてくれた。
今頃は半七さん(チン♪)何処で如何してござろうぞ…
先生は何度も巻き戻して聴かせてくれた。しかし。
…はぁ?
私には全く、この「チン♪」の何がどうなのか、理解できなかった。
…
もしかすると、この違いがわかる、センシティブな感覚にまで到達することが、日本伝統文化の切なる願いなのかもしれない。
そして、このセンシティブな感覚を日々の暮らしの中にまで拡大すると、多分、人生はもの凄いことになるだろう、と後年になって思った。
ややもすると、この「チン♪」のような微細さは、日々の中で見落としがちになる。
それでは、多分、幸せも見落とすことになると思う。
…気をつけて生きよう、などと。
2007年5月13日日曜日
不可能な狂言作品
ところで。
最近、野村万蔵の企画で、『あなたの狂言作品を上演します』、というものがあるらしい。
狂言にしたら面白そうなストーリーの原案を、野村万蔵に送ればいいらしいのだが。
昨年私は、「あのへんの時代」というテーマで色々と、私が生まれるちょっと前の学生運動の話にハマっていたのだが。
狂言の舞台で、学生と機動隊を衝突させてみたら、どうだろう?
…
シテ(機動隊):
これは国民(くにたみ)を護る業(なりわい)のものにてござる。
やぁやぁ、 ここなものども。
そなるバリケードとやらをうち砕いてしんぜようぞ。
アド(学生):
なんのなんの。みどもらのこなるゲバ棒にて、
そちらをば、うちころいてやるわいやい。
シテ:
如何なことを申す由なれば、ジェラルミンの楯をば
うち立てんとす。いざ、やるまいぞ。
アド:
みなのものども、火炎瓶を持てい。さぁ。やるまいぞ。
シテ・アド:
やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ…。
どこぞのフォーラムの余興とかでやれば、ウケると思うけど。…却下だろうな。
これは私の中だけの、幻の狂言作品だ。
最近、野村万蔵の企画で、『あなたの狂言作品を上演します』、というものがあるらしい。
狂言にしたら面白そうなストーリーの原案を、野村万蔵に送ればいいらしいのだが。
昨年私は、「あのへんの時代」というテーマで色々と、私が生まれるちょっと前の学生運動の話にハマっていたのだが。
狂言の舞台で、学生と機動隊を衝突させてみたら、どうだろう?
…
シテ(機動隊):
これは国民(くにたみ)を護る業(なりわい)のものにてござる。
やぁやぁ、 ここなものども。
そなるバリケードとやらをうち砕いてしんぜようぞ。
アド(学生):
なんのなんの。みどもらのこなるゲバ棒にて、
そちらをば、うちころいてやるわいやい。
シテ:
如何なことを申す由なれば、ジェラルミンの楯をば
うち立てんとす。いざ、やるまいぞ。
アド:
みなのものども、火炎瓶を持てい。さぁ。やるまいぞ。
シテ・アド:
やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞ…。
どこぞのフォーラムの余興とかでやれば、ウケると思うけど。…却下だろうな。
これは私の中だけの、幻の狂言作品だ。
2007年5月9日水曜日
睡眠学習
古典芸能の授業というものがあった。
校外学習で歌舞伎の舞台なども観に行った。
狂言と、文楽・浄瑠璃について、専門的なことを学んだ…はずだ。私以外は。
もちろん、学校に行くだけで精一杯の私にとって、この二つの授業中は、殆ど睡眠時間でしかなかった。
狂言の授業など、立って実際に「演る」授業だったにも関わらす、それで寝ている私は、どこまでふてぶてしい生徒だったのか。…いや、狂言独特の節回しが睡魔を誘ったので、仕方無かったのだ。
多分、狂言の先生は見て見ぬふりをしていてくれた。
文楽の先生など、
「いつか国語教師で食っていけなくなったら、文化サークルかなんかで、文楽の講師かなんかをやりたい。」
などと、切ない夢を初っ端に語って聞かせた。
しかもこの先生は、何も言わず、授業中にどこまでも私を寝かしつけてくれた。
…お陰で睡眠学習がはかどった。
そんな私のような者はともかく、中には卒業後も熱心に狂言や、近松門左衛門の研究や勉強に取り組んだ子らもいる。
寝ていた私でさえ、そこはかとなく古典芸能の楽しみ方が身に付いたとすると、これら無駄な授業ではなかったと思う。
校外学習で歌舞伎の舞台なども観に行った。
狂言と、文楽・浄瑠璃について、専門的なことを学んだ…はずだ。私以外は。
もちろん、学校に行くだけで精一杯の私にとって、この二つの授業中は、殆ど睡眠時間でしかなかった。
狂言の授業など、立って実際に「演る」授業だったにも関わらす、それで寝ている私は、どこまでふてぶてしい生徒だったのか。…いや、狂言独特の節回しが睡魔を誘ったので、仕方無かったのだ。
多分、狂言の先生は見て見ぬふりをしていてくれた。
文楽の先生など、
「いつか国語教師で食っていけなくなったら、文化サークルかなんかで、文楽の講師かなんかをやりたい。」
などと、切ない夢を初っ端に語って聞かせた。
しかもこの先生は、何も言わず、授業中にどこまでも私を寝かしつけてくれた。
…お陰で睡眠学習がはかどった。
そんな私のような者はともかく、中には卒業後も熱心に狂言や、近松門左衛門の研究や勉強に取り組んだ子らもいる。
寝ていた私でさえ、そこはかとなく古典芸能の楽しみ方が身に付いたとすると、これら無駄な授業ではなかったと思う。
2007年5月5日土曜日
ずっと僕は踊っていた
偶々、私は“やんぱっぱ”の授業で、ロシア語のプリントされたヘンなTシャツを羽織っていた。
それを見た“やんぱっぱ”は、そのロシア語を流暢に音読しはじめた。
「へぇ。先生、ロシア語読めるんですか?」
と、私が感嘆すると、“やんぱっぱ”は、「読めるよ」と。
聞くと、“やんぱっぱ”は戦前に生まれたと言う。そんな年寄りには全く見えないから、私は更に仰け反って驚いたものだ。
やんぱっぱ曰く、
「食べるものが無い時代も、僕はずっと路上で踊っていた。」…
16歳。
踊って、踊って、踊り続けて、お腹が空いていることを忘れていった。
…
それ以上“やんぱっぱ”の素性を、私は詳しく知らない。
“やんぱっぱ”が何ゆえバレエに目覚め、修行をどこで積んできたのか、それすら優秀な生徒じゃなかったから、深く言及するのに気後れしていた。
昭和一ケタ生まれでロシア語ができる、って言ったら、若い時代はかなり危険な目にも遭ったんじゃないか…?
きっと、ニジンスキーに憧れて、純粋に瞳を輝かせて、何も無い時代の16歳の“やんぱっぱ”は、一人、路上で踊り続けていたんじゃなかろうか…。
と、妄想すると、なんて劇的な半生だ。
あゝ、悔しい。ちゃんと“やんぱっぱ”の素性まで聞いておけばよかった。
それを見た“やんぱっぱ”は、そのロシア語を流暢に音読しはじめた。
「へぇ。先生、ロシア語読めるんですか?」
と、私が感嘆すると、“やんぱっぱ”は、「読めるよ」と。
聞くと、“やんぱっぱ”は戦前に生まれたと言う。そんな年寄りには全く見えないから、私は更に仰け反って驚いたものだ。
やんぱっぱ曰く、
「食べるものが無い時代も、僕はずっと路上で踊っていた。」…
16歳。
踊って、踊って、踊り続けて、お腹が空いていることを忘れていった。
…
それ以上“やんぱっぱ”の素性を、私は詳しく知らない。
“やんぱっぱ”が何ゆえバレエに目覚め、修行をどこで積んできたのか、それすら優秀な生徒じゃなかったから、深く言及するのに気後れしていた。
昭和一ケタ生まれでロシア語ができる、って言ったら、若い時代はかなり危険な目にも遭ったんじゃないか…?
きっと、ニジンスキーに憧れて、純粋に瞳を輝かせて、何も無い時代の16歳の“やんぱっぱ”は、一人、路上で踊り続けていたんじゃなかろうか…。
と、妄想すると、なんて劇的な半生だ。
あゝ、悔しい。ちゃんと“やんぱっぱ”の素性まで聞いておけばよかった。
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